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昭和59年4月に独立不惑の40歳で決断
「郷里では皆、本家の私が帰ってくることを待っていましたね。でも私自身、気持ちが変わっていったのです。豪雪地帯ですし、商売をするにしてもこちらの方がいいのではないかと。東京で所帯を持ったとき、本籍だけは秋田に置きました。そうすればいつかは帰ってくるのだなと、周囲の人も思ってくれると考えたからです」
結局、本家の跡取り息子は故郷に帰ることなく今に至る。
「ですから、田舎への義理は決して欠かしません。冠婚葬祭などで不義理をしたこともまったくありませんね。年間8回くらいは秋田に行っています。親戚中に配る土産物をいっぱい抱えてね。こちらにいる限りは、その辺はきちんとしておかなければいけません」
義理を大事にする昔気質の沓沢さんに、ほぼ同世代のボクは好感を持った。(義理人情は時代がどんなに変わっても、日本人である以上大切にしなきゃあ)。
氏が独立を強く意識するようになったのは30代半ば頃からである。だが長い間世話になった恩義を考えると、なかなか切り出せず悩んだという。気持ちに踏ん切りをつけたのは不惑の40歳になったときだ。
「山一の社長はそのかなり前から店の経営を専務に任せ、長野県内で神社関連の事業に打ち込んでいました。専務は、私が辞めたら店を続けていく自信がないので閉めるから、できれば山一の名を使って欲しいと言ってくれました」
業販でキャリアを積んできた沓沢さん。独立しても路線変更をするつもりはない。山一商会の閉鎖にともない、それまでの顧客を全部引き継ぐ形になったのはラッキーだった。新規開拓の労苦はさしあたりしなくて済むからだ。用意した自己資金は500万円ほどで昭和59年4月のことだった。
「業販では、仕入れがうまくいくかどうかがポイントになります。地方業販がうまくいかないときには、オークションに出せばなんとかなりますからね」
地方業販の冷え込みに直面AAの積極的活用に乗り出す
個人経営から「有限会社山一自販」にしたのは1年後。それから3年目には「山一自販株式会社」を誕生させ現在に至るが、業販というジャンルの中で沓沢さんは、その盛衰を見続けてきた。たっぷり利益を得ていた頃には、八ヶ岳山麓にできたオーナーズクラブのリゾートホテルを購入したりもしている。だが、バブルの崩壊、AA会場の増加で、地方への業販は次第に冷え込んでいく。
「タマの仕入れルートも変わっていきましたね。ディーラーやモーター屋さんからというのがメインだったのに、それが減りはじめたのです。それまでAAに出品することはあっても、買うことは殆どなかったのですがね」
AAから仕入れる同業者を笑って見ていたのに、それが他人事ではなくなり、自らも参入せざるを得ない状況が足早にやってきたのだ。買うだけではない。地方業販の冷え込みにより、売り先もAAに頼るようになっていくのである。
「扱い台数は増えましたがね」
そう言って沓沢さんは笑う。だが、その裏には苦い思いがあった。利益率の低下で、必然的に台数を増やしてカバーしなければ、追いつかないようになっていたのだ。
それも時代の趨勢とあれば、逆らうことは自らの首を絞める結果につながるだけ。氏は、AAを活用することで難局を乗り切るべく山一丸の操船に渇を入れる。
ここ数年、JU東京、JU埼玉、BCNの3AA会場で山一自販は、出品、落札の双方で年間トップ3内にランク付けされる実績を残している。ボクは率直に尋ねた。AAからAAへの売買はユーザー不在の流通であり、正常な中古車流通とはいえないのではないか。ババを引くのは誰でしょうか、と。
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