業販とともに歴史を歩んだ山一自販
小売り展示場の開設で事業を拡大

REPORT●諸町 克祐


 この道ひと筋45年になる。

 豪雪で知られる秋田県湯沢市から上京したのは、高校を卒業した18歳の時だった。就職先は、東京・北千住にあった2輪車の大手業販店「山一商会」。自らの意思で選んだ会社ではない。本家筋の跡取りを育てようとする都内在住の親戚一族が後押しし、彼らの段取りしたレールに乗って何も分からぬまま、たどり着いた先がそこだった。

二人の息子が後継ぎに

「うれしかったですね」

 根気と粘り強さ。東北地方出身者の代名詞にもなるほどこれは広く知られているが、40歳で独立するまで、22年間も同じ店で頑張り続けてきたことは、さすがということになる。時代の流れで2輪から4輪へと、業販する扱い商品は変わっても、商いの基本に揺るぎはない。経験は財産である。独立時も小売りには目もくれず、自宅を事務所に業販オンリーでスタートしているのだ。

 沓沢博氏。この11月で満63歳になる。埼玉県越谷市に展示場を構える「山一自販株式会社」の代表取締役だ。氏は、JU東京では16年も前から副会長・副理事長を務め、流通・指導環境の両担当役員でもある。ちなみに氏の次男である明寛氏(32歳)も、JU東京の青年部副部会長であり、オークション委員を兼務する。親子ともどもJU組織で学び、磨く姿勢を貫いている。

 業界キャリアが長い沓沢さんの軌跡は、業販の衰退を肌で感じ、小売りに進出するくだりを除けば、ほぼ平穏な商いをしてきたように思われる。

 業販での事業拡大は念頭にあったそうだが、オークションの隆盛がそれを阻み、地方取引もゆるやかに後退していく状況などから、将来性に危惧を抱き、構想は頓挫した。

 新展開は、2人の息子がトヨタ系ディーラーの勤務にピリオドを打ち、親の許に戻ってきたことからスタートした。子どもたちに跡を継げと強要したことは一度もない。心の内では密かに望んでいたことであっても、である。

「うれしかったですね」

 その心情、よく分かる。以心伝心、何も言わなくても子どもは親を見て育っているのだ。

今年4月、越谷市の好立地に展示場を開設

 インタビューのテープ起こしをしていて、アレっと思った。話を聞きながら実によく笑っているのである。以前にも一度笑いすぎているケースがあり、自分なりに反省したものだが、今回もまた同じ轍を踏んでいる。われながらなんとも懲りない性分だ。救いは沓沢さんの笑いとダブルになっていること。ボクだけがはしゃいでいたわけではない。話が盛り上がっていたのだと解釈すれば、それもまたよしとしようか。

 埼玉県の越谷市内中心部からクルマで10分足らずの産業道路沿い。作業車の駐車場だったところが、装いも新たに生まれ変わったのは今年4月のことだった。常時70台が並ぶ中古車展示場としてお目見えしたのだ。敷地は600坪。奥行きはさほどでないが、間口はなんと55メートルもある。交差点がすぐ近くにあり、信号待ちのクルマから展示車を見ることも容易で、立地としては上々のロケーションだ。

 自宅を事務所にしての独立から1年後、南越谷に300坪弱の土地を借りて20年。その殆どを業販の「山一自販」でやってきた沓沢さん。終盤の2年半は小売りにも手を染めているが、本腰を入れるようになったのはこの新天地に来てから、と言ってもいいだろう。成果は着実に現れており、小売りの比重が今後さらに大きくなっていくだろうと氏は語る。

「小売りと業販の違いはやはり感じますね。これまでの商い・業販は売ったらそれで完結です。しかも地方の場合は入金まで日にちもかかる。そこへいくと小売りには広がりがある。保険、用品取り付け、販売、整備、アフターフォローなどがあって、お客さんとの交流も続きます」

 業界経験豊富な沓沢さんでも、こと小売りに関しては60の手習いといったところらしい。もっとも、第一線の小売り現場で指揮をとるのは長男の専務取締役・隆行氏(35歳)である。常務の明寛氏は業販部門を担当し、店で腰を落ち着けるのは週に2日くらいしかない。こうした孝行息子たちのお陰で、父親は業界活動に専念できるというわけだ。


親戚筋の計らいで上京し、「山一商会」に就職

「私とは8つ違いの兄が早くに亡くなっており、親父は跡取りとなる自分を可愛がってくれましたが、躾についてはとても厳しかったですね。その父も私が高校生のときに脳溢血で倒れ亡くなりました。家業は自転車屋で、やがてはその仕事を継ぐのが当然のことと思っていたのですが、早すぎる父の死が私の進路に変化をもたらしたのです」

 沓沢さんは、一族の本家筋と言う立場にあった。身勝手が許されないことは十分承知している。まして時代も今とはまったく違う。

「家業をやるにしても、外でしばらく修行したほうがいいと、親戚筋が計らってくれたのだと思います。親父の兄弟が東京で商売をしていたこともあり、田舎にいても仕方がないからと私も上京することになりました。もちろん、いずれはまた郷里に戻って商売をするつもりでした」

 そうした事情もあって、就職した先が「山一商会」だった。昭和30年代後半の大都会は、東京オリンピック開催に向けて高速道路や新幹線の敷設工事などが急ピッチで進められ、活気に溢れていた。

 沓沢さんは黙々と与えられた仕事以上のことをこなし、社内だけでなく、仕入先など関わりあう外の人たちとの間にも、信頼関係を築きあげていった。

 40年代に入ると、パブリカをはじめ、サニー、カローラなどが登場。マイカー時代が幕開けする。2輪の業販店、山一商会も軽自動車や4輪車を扱うようになった。

中古車流通の要となるオークション会場は、まだ黎明期。しかし沓沢さんは当時の様子を克明に記憶している。なにしろ、山一商会に勤務しながら東京中販の協会理事にも就いていたからだ。

 本題から逸れてしまうのでここでは省略するが、氏はその頃のエピソードを存分に語ってくれ、ボクもしっかり耳を傾けた。テープの中での笑いは、このあたりが一番多い。

 上京した頃の、「やがては地元に戻って家業を」は、なかなか実現しなかった。たった一人の妹は高校を出ると東京に仕事先を求めてしまい、田舎には母親だけが残っていた。数年で帰る予定だった沓沢さんに、山一商会の社長は言った。「まだ帰るのは早い。もっと勉強することが沢山あるぞ」。こうして帰る機会を得られぬまま、歳月は流れていった。

昭和59年4月に独立不惑の40歳で決断

 「郷里では皆、本家の私が帰ってくることを待っていましたね。でも私自身、気持ちが変わっていったのです。豪雪地帯ですし、商売をするにしてもこちらの方がいいのではないかと。東京で所帯を持ったとき、本籍だけは秋田に置きました。そうすればいつかは帰ってくるのだなと、周囲の人も思ってくれると考えたからです」

 結局、本家の跡取り息子は故郷に帰ることなく今に至る。

「ですから、田舎への義理は決して欠かしません。冠婚葬祭などで不義理をしたこともまったくありませんね。年間8回くらいは秋田に行っています。親戚中に配る土産物をいっぱい抱えてね。こちらにいる限りは、その辺はきちんとしておかなければいけません」

 義理を大事にする昔気質の沓沢さんに、ほぼ同世代のボクは好感を持った。(義理人情は時代がどんなに変わっても、日本人である以上大切にしなきゃあ)。

 氏が独立を強く意識するようになったのは30代半ば頃からである。だが長い間世話になった恩義を考えると、なかなか切り出せず悩んだという。気持ちに踏ん切りをつけたのは不惑の40歳になったときだ。

「山一の社長はそのかなり前から店の経営を専務に任せ、長野県内で神社関連の事業に打ち込んでいました。専務は、私が辞めたら店を続けていく自信がないので閉めるから、できれば山一の名を使って欲しいと言ってくれました」

 業販でキャリアを積んできた沓沢さん。独立しても路線変更をするつもりはない。山一商会の閉鎖にともない、それまでの顧客を全部引き継ぐ形になったのはラッキーだった。新規開拓の労苦はさしあたりしなくて済むからだ。用意した自己資金は500万円ほどで昭和59年4月のことだった。

「業販では、仕入れがうまくいくかどうかがポイントになります。地方業販がうまくいかないときには、オークションに出せばなんとかなりますからね」


地方業販の冷え込みに直面AAの積極的活用に乗り出す

 個人経営から「有限会社山一自販」にしたのは1年後。それから3年目には「山一自販株式会社」を誕生させ現在に至るが、業販というジャンルの中で沓沢さんは、その盛衰を見続けてきた。たっぷり利益を得ていた頃には、八ヶ岳山麓にできたオーナーズクラブのリゾートホテルを購入したりもしている。だが、バブルの崩壊、AA会場の増加で、地方への業販は次第に冷え込んでいく。

「タマの仕入れルートも変わっていきましたね。ディーラーやモーター屋さんからというのがメインだったのに、それが減りはじめたのです。それまでAAに出品することはあっても、買うことは殆どなかったのですがね」

 AAから仕入れる同業者を笑って見ていたのに、それが他人事ではなくなり、自らも参入せざるを得ない状況が足早にやってきたのだ。買うだけではない。地方業販の冷え込みにより、売り先もAAに頼るようになっていくのである。

「扱い台数は増えましたがね」

 そう言って沓沢さんは笑う。だが、その裏には苦い思いがあった。利益率の低下で、必然的に台数を増やしてカバーしなければ、追いつかないようになっていたのだ。

 それも時代の趨勢とあれば、逆らうことは自らの首を絞める結果につながるだけ。氏は、AAを活用することで難局を乗り切るべく山一丸の操船に渇を入れる。

 ここ数年、JU東京、JU埼玉、BCNの3AA会場で山一自販は、出品、落札の双方で年間トップ3内にランク付けされる実績を残している。ボクは率直に尋ねた。AAからAAへの売買はユーザー不在の流通であり、正常な中古車流通とはいえないのではないか。ババを引くのは誰でしょうか、と。

 氏は嘆息するように、

「儲けているのはAA会場と陸送業者ですね。うちではAA手数料が月に1000万円前後、陸送代も300万円ほどかかっており、この負担は大きいですよ」

 自販連発表の中古車販売台数は新車のそれを凌駕するが、ユーザーの足になるクルマは50%を切るあたりが実態だろう。沓沢さんもそれは先刻承知しているようで、ボクの質問も含め、その是非について私見を述べてくれたが、氏の立場もあること故ここでは割愛したい。

平成14年に小売りをスタート将来的には拠点展開も

 業販店「山一自販」のエポックメイクと言えば、大学を出て東京トヨペットに就職していた隆行氏が、5年の勤務で帰ってきたことだろう。そして次男・明寛氏もトヨタビスタ埼玉から隆行氏と同様、5年間勤めて戻ってきた。ディーラーで経験を積んだ2人の息子が、親の仕事場で力を合わせる。沓沢さんにとってそれはなによりの喜びだった。

「代を継ぐ子どものいない同業者から、幸せだと言われましてね」

 ディーラーでは新車販売が主だったが、家業は中古車がメイン。息子たちの発想は業販一本でやってきた父親とは違った。しかも実行力がある。小売りをしなければ先は暗い。話し合いが続けられ、沓沢さんも決断する。

「南越谷の業販センターをきれいにして、ユーザー対象の販売店に変えました。それまで並べていた業販車は他所に移しましたよ」

 平成14年のことだった。とはいえ、中古車の小売りに関しては3人とも初心者である。試行錯誤しながらの商いで、まだまだ業販に頼るところ大であった。それでも日々経験の効果は小さくない。現在地への移転もそれに拍車をかけた。

「ここに土地を借りた時点では南越谷と両方でやっていく予定でした。ところが人材確保がネックになり、それまでの店を畳むことにしたのです」

 山一自販の現有勢力は、社長の沓沢さんを含めて8名。小売り現場の手が足りないことを氏は痛感しており、さし当たってあと2人は必要だと言う。といって、さほど遠くない将来に、拠点展開を計画していることもあり、育成を考えれば誰でもいいとはならない。募集はしているものの、これはという人材にはまだ巡り合っていないとか。焦らずじっくり構えていくしかないと氏は達観する。


JUへの愛着はひとしお業界の正常化へ尽力

 業販、新車・中古車販売、整備、保険と、業務内容が増えたことに対し、沓沢さんは満足感に浸るだけでなく、さらなる展望に意気盛んなようである。職務分担した息子たちの意欲的働きが、氏のやる気を喚起したのであろう。それでも子どもたちを前面に押し出し、自分はちょっと引いているつもりのところが、可愛らしい。

 安心して家業を託せることもあってか、組織内活動は非常に活発である。JU東京の流通・指導環境担当役員として、アウトサイダーに対する腐心も並大抵ではない。業界イメージを損なう振る舞いが、JU中販連の会員より多いこともあって、彼らを組織に入れて教育、秩序を保ちたいというのが氏の願いである。

 許認可制の採用を陳情するなどもしているが、実現は遠そうだ。ならばせめてという代案も用意しているのだが、行政の腰は重く動きそうもないのが、氏には歯がゆくてたまらない。

 組織での活動が長いだけに、沓沢さんのJUに対する愛着はひとしおである。目下の悩みはアウトサイダー問題に加え、会員の減少と青年部の沈滞。対策を講じて笛を吹いても、踊ってくれる人はごくわずかだそうで、若い人に入ってもらえなければ組織消滅の危機もあると、氏は心配する。

 ノンポリ派のボクにすれば、貢献行為を惜しみなくする人は、まさに神さま仏さまとしか思えない。沓沢さんの実直さ。それは短い語らいに過ぎなかったが、十分感じ取ることができた。

今年は業販3300台、小売は300台の達成めざす

 5月の決算で山一自販の16年度総売上は15億6000万円を計上した。前年度に比べ8000万円アップしている。今年は業販が3300台、小売りは月間平均25台で年間300台の予測だが、多分クリアするだろう。

「オープンから4ヵ月ですし、まだ売れ筋傾向などは掴めていません。いろいろ試している段階で、軽自動車、ミニバンなどの当たりはいいようですね。宣伝は雑誌媒体を使っていますが、直接効果はそれほどあるとは感じられません。ただ雑誌経由のネットではかなり遠方からも問い合わせがあり、販売に結びつくケースも見られます」

 いずれにしても、新天地での商いは順調に滑り出したわけで、沓沢さんの息子たちに寄せる期待は大きい。

「もう私は非常勤。現場を引っ張るのは子どもたちです。これからは好きな海外旅行を夫婦で楽しむ時間も取れるでしょう」

 会社の将来計画なども、三役会議や全体会議で俎上に上げ、具体案を話し合うスタイルが確立している。業販で名を売った山一自販が、小売り市場でも名を成すことができるか。それは偏に息子たちの手腕次第だ。だが沓沢さんはさほど心配していない。信頼しているのである。

「専務は総体的な管理能力と言う面で合格点が付けられますし、常務の方は商売的な感性に優れていると思います。小売りと、業販は別個のものですが、うまく両立させていってくれるでしょう」

 これまで沓沢さんが心掛けてきた信条は「奢ること勿れ」だった。そしてクライアントに対しては「誠心誠意で接する」。この2つを肝に銘じてきた。この精神は、息子たちにも継承されていくことだろう。

☆   ☆

 これまで大きな病気はしたことがないという沓沢さん。それでも健康面には気を遣っているそうで、他人から良いといわれた健康食品にはすぐ手が出てしまうとか。各種サプリメントの類、深海ザメのエキス、牡蠣など多種多様だ。

 一時期楽しんでいたゴルフは封印。今は海釣りが趣味。JU東京のイベントとして昨年から釣り大会も開催。40人前後が参加して盛況である。幹事はもちろん沓沢さん。世話好きな一面がこんなところにも出ているようだ。

 

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